柏原竜二と聞くと、箱根駅伝、東洋大、山の神…そういう単語が思い浮かぶのではないでしょうか。
箱根駅伝5区でトップと4分58秒差から大逆転で往路優勝!
「山の神」もしくは「山の神童」と言われ、あの瀬古利彦さんが認める箱根駅伝史上最高の天才ランナーです。
そんな柏原選手ですが、実業団に進んでからはあまり名前を聞かないまま引退…
そして今はアメリカンフットボール部のマネージャーに驚きの転身をしているそうです!
2017年8月27日18時30分~20時54分にTBS系列で「消えた天才 ~一流アスリートが勝てなかった人大追跡SP~」にて、放映されました!
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1989年7月13日生まれ、福島県出身。本格的に陸上を始めたのは中学になってからで、この時は全国中学校大会にも出場しています。
ですが、高校時代はインターハイや全国高校駅伝には縁がありませんでした。
記録も伸びないので、陸上は高校までにして地元で就職しようとしたそうです。
そんな中、選手勧誘に訪れた東洋大のスカウトマンが貧血の可能性を指摘、食生活を改善したところ一気に記録が伸びます。
冬で記録が出やすい時期ながら14分01秒とその年の日本人高校生のトップ10内に入る記録を出します。
そして駅伝ファンに一気に知られるようになったのは卒業前の都道府県対抗駅伝。1区を任された柏原選手は序盤からスパート、一気に前に出ます。
まだ無名だったこともあるのか、だれもついてきません。終盤に実力者が追い込んできますが、懸命の走りで逃げ切り区間賞。一気に注目の的となります。
そして東洋大で、輝かしい成績をたくさん残しますね。
大学入学直後の関東IC10000mが、柏原選手本人が一番印象深いと言っているレースです。
スタート直後から飛び出した山梨学院大と日本大の留学生に、日本人でただ一人食いついていきます!さすがに途中からは遅れますが、その後ろの日本人トップ集団で粘ります。
そして残り2周となったタイミングでスパート!!当時優勝争いしていた駒沢大のエース選手を一気に突き放します。そのまま逃げ切り日本人トップの3位入賞!鮮烈なデビューを果たします。
そんなスーパールーキーがお茶の間にブレイクしたのが箱根駅伝です。初代「山の神」の今井正人さんに憧れて、夏から5区を志願。その今井さんの記録にどこまで迫れるか注目されていた。
レース当日、東洋大は中位争いで喘いでいた。柏原選手がタスキを受けたときはトップと4分58秒差の総合9位でした。
とにかく何が何でも前へ、それ以外は考えず物凄い勢いで突っ込んだ柏原選手は区間記録を上回るペースで次々に前を追い抜いていきます。そのペースは山中でも衰えず、なんと残り5㎞地点でトップに追いつきます!
そこから一進一退の攻防になりますが、残り2㎞でついに引き離します。史上に残る大逆転の往路優勝劇を演じます。そして今井さんの記録を47秒上回る区間新記録!
東洋大はその勢いで初の総合優勝!一躍有名人になります。
続く2年生の時も逆転で往路優勝、チームの連覇に貢献します。
しかし、3年時は一転不振に陥ります。夏の練習でもチームメイトから遅れてしまうくらいでした。
そんな3年時の箱根駅伝も逆転で往路優勝!「やったぞ、田中!」と叫びましたが、苦しんだ時に支えてくれたチームメイトの名前でした。
しかし、チームは復路で逆転され僅か23秒差で総合2位に終わります。そこから「その一秒を削り出せ!」のスローガンが誕生します。
最後の箱根駅伝の前哨戦、11月に行われる全日本大学駅伝でアンカーを務めた柏原選手はトップと1分40秒差の2位でタスキを受けると、懸命に前を追います。しかし、僅か33秒差で届かず涙にくれます。
前回の箱根に続き、2度の惜敗。この悔しさが箱根で爆発します。4区終了地点でなんと東洋大がトップ。柏原選手にトップでタスキを受け取ります。
力強さを取り戻した柏原選手は快調なペースを刻み、往路4連覇を達成!そして3回目の区間新記録を樹立する活躍を見せます。
そしてそのまま破格のタイムで総合優勝…東洋大を優勝常連校へと成長させ、さらに箱根駅伝への注目も高め(明らかに沿道の応援の数が増えた)、とても大きな功績を残しました。
卒業前に高橋尚子さんと会談する機会もあり、マラソンを目指して富士通に進んだ柏原選手
「世界は2時間4分5分なので、2時間6分台で走りたい気持ちはある」と話していましたが…
その後はあまり名前を聞くことはありませんでした。
2012年4月に入社、直後に5000mで自己ベストを更新するも怪我などもあり、その後はやや苦戦。NY駅伝は3度出場し、一年目は繋ぎ区間の6区で4位、その後は上り区間の5区で区間一桁の成績でした。
それでも2015年9月のシドニーマラソンで念願のマラソンデビュー。2時間20分45秒の成績でこれが生涯ベストとなります。
2016年3月の琵琶湖毎日マラソンにも出場。リオ五輪がかかるレースで、25㎞付近まで先頭に食いついた姿もありましたが。体力ギリギリまでついたことで2時間24分台と失速。これが現役最後のマラソンとなりました。
2016年12月に腰を痛め、その中でマラソン練習を積もうとしますが、その後に脚を故障。
実はずっと選手の生命線ともいわれるアキレス腱を痛めていたのですが、いつもと逆のアキレス腱だったそうです。
マラソンができる身体ではなくなったことから27歳という速さ引退を決意します。
周囲からは勿論現役を進められたそうですが、「NY駅伝の繋ぎ区間ならと思ったけど、そちらに逃げたくない」「飽きっぽい自分が唯一続けられた陸上を嫌いになりたくなかった」と押し切ったそうです。
さて、そんな柏原さんですが、現在はちょっと驚きの職業になっています。
なんとアメリカンフットボールチーム「富士通フロンティアーズ」のマネージャーに就任しているそうです。
練習中の様子をビデオ撮影、編集し、チームメイトに見せる、そして次練習に生かししてもらう。マネージャーに専念しているそうです。
その様子から外国の選手には「マウンテンゴッドはグッドパーソン」と言ってもらえるほどだそうです。
それにしてもなぜ陸上部からアメフト部に行ったのか。
柏原「平たくいれば業務命令です。」という。
柏原「業務命令にNOと言ったら
成長が止まると思うので、
精いっぱいやった方がいい」とのことです。
輝かしい時代のことはどう思っているのか聞くと、
結構苦悩があったそうです。
柏原「飯を食べている風景を撮影されたり、電車で盗撮されたり、24時間監視されている感じ。スマホのカメラを叩き割ってやろうと思った」
柏原「マスクして歩いていると『何アイツ芸能人ぶってるんだ』と言われる。ますます人見知りになってしまった」
一気に有名人になってしまったがために、日常生活をいつものように送るのにも苦労していたそうです。
それと「山の神」だけが先行してしまうのも嫌だったそうです。
柏原「全日本駅伝で2区や8区で区間賞を獲得しても誰も知らない。箱根以外でいい結果を残しても、結局山の神で片付けられてしまう」
そんな苦悩もあったそうですが、今の仕事はとても張り切ってできているそうです。
アメフト部のPRイベントでは大声で現場を仕切る姿。
部員とファンとの写真撮影では、他の部員が「山の神もいますよ~」の掛け声にもニッコニコ。
いい広報になっていますね。
柏原竜二さんの第2の人生を応援したいですね!