今年になって、バラエティ番組「衝撃のアノ人に会ってみた!」で『箱根駅伝スペシャル』が放送されるようになりましたね!
2017年11月16日(木)の19時からの放送でも行うそうです。
箱根駅伝スペシャル!
今が気になる4人を大ツイセキ
前代未聞!タスキを忘れたアノ選手…驚きの転身&衝撃のウラ話
10年前、病と闘いながら走った男…今、明かされる感動秘話
出典:http://www.ntv.co.jp/anohito/
4人とありますが、事前に紹介されているのはこの2選手のようです。
その2選手を番組事前に紹介しようと思います。
Contents
名前が挙がっていませんが、10年前(第83回箱根駅伝)で病と闘いながら走った男と言えば、おそらく
出典
よしあきのブログ:https://ameblo.jp/omw2610022/entry-10213607376.html
脳神経外科疾患情報ページ:https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/601.html
石谷慶一郎選手は2歳で、水頭症を発症しています。
頭蓋骨と脳の間は脳脊髄液という液体で満たされています。
脳内にある脳室という部屋の脈絡叢という部分で生成され、
頭蓋骨で吸収されます。
何らかの循環障害で、脳脊髄液の貯留量が増え、
脳室が大きくなり、脳を圧迫するのが水頭症です。
神経過敏、不機嫌、嘔吐などの症状から始まり、
進行すると外転神経(目を外側に向ける)麻痺、
うっ血乳頭(目の奥の血管に血液がたまる)など
症状が現れます。
一般的には「シャント手術」というものが行われます。
脳室内にカテーテルを挿入し、
お腹の中など別のところに脳脊髄液を流し、
脳圧を正常に戻すのが一般的な治療方法です。
なお、石谷選手はこの管を体内に埋め込んでいます。
一般的に症状が改善する場合が多いですが、
症状の重さによっては、
知的障害や運動麻痺が残ってしまう場合があります。
石谷選手はお医者様より、
一生歩けないだろうと言われたそうです。
そんな石谷選手ですが、
日常生活に支障はなく、
運動もサッカーのようなヘディングする競技以外は、
取り組むことができたそうです。
中学校から陸上長距離を始めると
その才能が開花。
藤沢翔陵高校に進学し、3年時に全国高校駅伝に出場!
しかも、1区エントリー。
チームのエースとしてエントリーします。
ところが、当日の朝に事態が急変します。
頭痛を訴え、意識が薄れていきます。
長年の使用で、管に不具合が生じていたそうです。
出走直前のアクシデントの為、
チームは代替選手を用意できず棄権。
石谷選手は術後の病床で、
大きな悔しさを味わいます。
しかし、石谷選手はその悔しさをバネにする
逞しさを持っていました。
2年時に箱根駅伝6区山下り出走を勝ち取ります!
3位で復路をスタート、
後ろから区間賞ペースで追い上げてきた
日大・末吉選手に16.6㎞で交わされます。
数m差をつけられますが、
石谷選手も踏ん張ります。
徐々に差を詰めると17.45㎞地点で再逆転します!!
そこからしばらくつばぜり合いが始まります。
その間、18.7㎞地点での実況です。
『実は日体大の2年生の石谷は、生後2か月で水頭症を発症しました。左右の首からお腹にかけて2本の管を通して、体内を循環させる手術を行いました。お母さんは、医者から、この子は将来普通に歩けないだろう、と言われていたそうです。しかし、何とか、日大にくらいついていこうというところです。同じ病気の支えになりたい、そう話していた、どんどんテレビで公表してください、そう話していた石谷が、日大にくらいついています!』
同じ病気の人に夢を与えたい、そんな心意気に感動しますね!
最後のラストの争いには屈しますが、60分15秒の区間5位。
チームの総合4位に大きく貢献します!
3年時にも出走しますが、
この時は61分49秒でかかり区間15位の失敗レース。
4年時は出走できませんでした。
2度の出走、更にそのうち1回は区間5位の好成績!
難病と闘いながら、箱根駅伝に確かな足跡を残しました!
長く特集されていました。
・現在はIT企業に勤務
・趣味程度に走っている(多い日は1日30㎞!)
・年2回の定期検診は欠かせない
趣味で1日30㎞はさすが箱根駅伝選手ですね(*_*) 次元が違いすぎます。
この部分もクローズアップされていました。
野球やサッカーはボールが頭に当たる危険があるから、
ドクターストップ。
石谷少年「僕は走るしかない」
と思ったそうです。
幸い、走ることは好きだったのでのめりこんでいったそうです。
母親も「夢中になれるものが見つかって
ものすごくありがたかった」
ととても嬉しそうでした。
高校の藤沢翔陵でエースでキャプテン!
最後の全国高校駅伝を心待ちにしていました。
ところが、レース当日、アクシデントが襲います。
体内に埋めた管の不具合で水頭症が悪化。
緊急出術を余儀なくされたのです。
当日の様子を父親が
「もう全く目の焦点が合わない感じで、これはダメだ」
と思ったそうです。
母親は
「なにもこんな日でなくてもいいのに…神様はいないのかな」
と、とても苦しかった心境を吐露していました。
石谷選手本人は
「ほとんど頭が痛かったことしか覚えていない。
ただ、1m走って(1区出走予定)棄権すれば、
2区以降は他の選手は走れる
だからスタートはしたい」
と監督コーチに言ったのは覚えているそうで…
それでもやむなく出術へ。
脳が圧迫されていて、少しでも遅れていたら
命の保証はなかったそうです。
落ち込む石谷選手を支えてくれたのは
チームメイトでした。
病室にやってくるととても明るく振舞い、
「これを渡しに来たんだ」
とタスキを差し出したのです。
「また、一緒に走ろうな
陸上、続けてくれよ」
とても大きな支えになりました。
2年時の箱根駅伝の直前、
取材で石谷選手を話した蛯原アナは
「(病気のことを知り)まずびっくり!
そして『同じ病気で戦っている人にも伝えたい』
という石谷選手の思いを伝えたい!」
と思ったそうです。
しかし、箱根駅伝前の会議では
「選手全員が主役。公平性に欠ける」
「それを伝えた後、途中で止まってしまったらどうする
石谷選手が可哀そうじゃないか」
という反対意見がでて、答えは出ず
最終的にアナウンサーの判断に任されることになりました。
3位で走り始めた石谷選手は日大とデッドヒート!
1度は遅れかけるも17㎞・18㎞で再び
抜き返す場面
「ここしかない!」
と思った蛯原アナは
「俺のせいにしていいから」
と周囲のスタッフを制して
実況で病気のことを話したのです。
今回10年後の再開、
あれ以来石谷選手と会っていない蛯原アナは
「迷惑ではなかったか」気がかりだったそうです。
それを伝えると
石谷選手は
「そんなことはないです。
実際に水頭症の子供を持ったお母様から
『力になりました』『励みになりました』
との声。
蛯原アナもほっとした様子でした。
以上がテレビ放送も交えた様子です。
また特集する機会があれば書きたいと思います。