アニメやスマホゲーム『ウマ娘プリティーダービー』のおかげで、競馬業界が盛り上がっていますね。
ウマ娘には、多くが史実になった競走馬が元ネタになっています。その元ネタの競走馬を、ウマ娘のエピソードと交えながら、まとめます。
参照サイト:JRA-VAN 様
続いて、”東京の二千に咲いたムテキの舞い”
ヤエノムテキです。
Contents
生誕日:1985年4月11日
性別:牡馬
毛色:栗毛
父親:ヤマニンスキー
母親:ツルミスター
母父:イエローゴット
生産者:宮村牧場
馬主:(有)富士
調教師: 荻野光男
デビュー:1988年2月27日
最終レース:1990年12月23日
生涯成績:23戦8勝(8.4.3.8)
獲得賞金:5億2422万7500円
特徴:
1800m~2200mが距離適性
東京2000m左回りがめっぽう強い!?
2022年4月18日(月)に、ヤエノムテキが、新たな育成実装ウマ娘として発表されました。あの有名なオグリキャップ世代の1頭であり、ちょうど漫画シンデレラグレイが盛り上がってきたタイミングでした。
出展:ウマ娘プリティーダービーサポートカードより
「四本の足先&額から鼻先にかけて白くなっている」”四白流星”という、珍しい見た目をしていて、栗毛も相まって非常に見た目綺麗なお馬さんでした
父親ヤマニンスキーは、イギリスのクラシック三冠を果たしたニジンスキーの仔。ニジンスキーの仔の代表格にマルゼンスキーがいましたが、その代用馬として人気がありました。
母親ツルミスターは、現役時代未勝利に終わるものの、その父親が日本ダービーを制しているイエローゴットであったこと。ツルミスター自体に、馬体のパワーがあったことで、荻野さんが馬主を説得。繁殖牝馬として、宮村牧場に残ることができました。
配合も、荻野さんが選ぶ形。ヤマニンスキーとツルミスターで配合した結果、、1985年4月11日に、(後の)ヤエノムテキが誕生しました。
ヤエノムテキは、比較的大柄なお馬さんでした。そのうえ、放牧すると、牝馬(女の子のお馬さん)を追い回す癖があったそうです。そこで、放牧中は、ヤエノムテキ1頭のみにされていたという逸話が残っています。
暫くすると、三重県の育成牧場に移動、度々滋賀県の栗東トレーニングセンターに訪れて様子を確認したりしていました。
そして、1987年の夏前に、荻野厩舎に入厩します。そのままデビューする予定でしたが、後肢の成長が十分でなかったことから、かなり延期をしました。最終的にデビューとなったのは1988年の2月となりました。
阪神競馬場ダート1700m戦、鞍上西浦騎手でデビューを飾ります。3番手追走から、最後の直線で先頭へ。そのまま7馬身差の圧勝で初勝利を挙げます。2戦目は、同じダートでなんと12馬身差の圧勝!後続に2秒の差をつける大差でした。
陣営は、クラシックレース皐月賞を目標にしますが、条件戦2戦では、必要な賞金に足りていませんでした。そんため、連闘で、初の芝となる毎日杯(GⅢ)に挑戦します。
でしたが、この時は中央競馬2戦目となるオグリキャップが圧勝。3馬身半差をつけられる4着となり、賞金加算に失敗します。
皐月賞には登録したものの、ヤノエムテキは賞金順で16位タイでした。最大枠18でしたが、同じ賞金額の馬が6頭いたため、当選確率50%の抽選となりました。その抽選に通ったヤエノムテキは、無事皐月賞に出走。9番人気に支持されます。
動画:JRA公式チャンネル
この年は、いつもの中山競馬場ではなく、東京競馬場で行われていました。
1枠を引けたヤエノムテキは、スタートから好意をつくことに成功。中団やや前目でレースを進みます。直線で、スピードを上げ残り300m付近で早くも先頭に!ディクターランドやサクラチヨノオーとのたたき合いを制して優勝!
しかも芝レースの初勝利が、GⅠ及びクラシックとうことで、評価は急上昇。東京ダービーに向けて、メディアの取材も増え、荻野さんは円形脱毛症になるほど、プレッシャーを感じていました。
東京ダービー当日は、皐月賞を回避していた有力馬サッカーボーイに次ぐ、2番人気でした。
レースでは6番手付近につけると、徐々に外に持ち出して、直線勝負をかけます。でしたが、先頭を捉えることはできず4着に。
このレースは、サクラチヨノオーが、メジロアルダンとの壮絶な叩き合いの末に制したレース。これに後れを取りました。なお、荻野さんはこの頃から、距離が長いのではと思っていたそうです。
続く、中日スポーツ賞は、サッカーボーイに次ぐ2着。2ヵ月休養した後、UHB杯から始動します。
オープンレースながら、重賞レースを制したことがある古馬相手に勝利します。さらに、菊花賞の前哨戦でもある京都新聞杯でも勝利、一気に菊花賞馬有力候補になりました。
くしくも、これまでしのぎを削ったライバルが不在。サクラチヨノオーは屈腱炎で休養、サッカーボーイは短距離路線へ、オグリキャップは古馬戦線へ。
ヤエノムテキ自身も、皐月賞馬であり、前哨戦も制していたことから、1番人気に支持されます。
過去のクラシックと同じように、好意に付け、直線での追い込みを図るも、逆に失速。10着と大敗してしまいます。
このことについて、競馬評論家大川さんも、距離が長いのではと指摘をしています。
このためヤノエムテキ陣営は、次走は有馬記念ではなく、GⅡレースで距離適性を図ることにします。
有馬記念の代わりに出場した鳴尾記念は何とか制する者の、ハナ差辛勝。年明け日経新春杯は、2着となります。
この結果から、荻野さんは距離適性は2000mと定めます。次走は、当時GⅡレースだった2000m産経大阪杯に挑みます。
参照サイト:Youtube
道中5番手付近に付けると、直線で進出開始。先行していたゴールドシチーやランドヒリュウらを捉えると、そのまま3馬身半差を付けて圧勝しました。
なおここまで12戦7勝!半分以上のレースで勝利していて、古馬戦線中心的な存在になっていくと思われました。
でしたが、1番人気で臨んだ宝塚記念で、イナリワンの7着に敗れるます。休養を経て、2000m天皇賞秋に臨むもスーパークリークの4着、有馬記念もイナリワンの6着に終わります。
くしくも、この年は平成元年、平成三強と謳われた”オグリキャップ、イナリワン、スーパークリーク”がGⅠレースを席巻!ヤエノムテキは、その裏に隠れた存在になってしまったのです。
年変わって、1990年になるも、中々勝ち切れないレースが続きます。
年明けGⅡ2戦連続で、2着・3着と惜しいレースが続くと、連覇をかけて挑んだ産経大阪杯も、スーパークリークに及ばず3着に敗れます。
続く安田記念で、ずっと手綱を握っていた西浦騎手から乗り替わり、ベテランジョッキー岡部騎手に乗り替わります。
その安田記念には、直線で抜け出したオグリキャップを追走する形で進出。懸命に追いすがりますが、2着に敗れます。
続く宝塚記念は、第3コーナーでトップに立ったオサイチジョージがそのまま逃げ切り、オグリキャップに大金星を挙げるレース。ヤエノムテキはその2頭に続く3着となります。
なんと、1990年春は、5戦して5連続で2着か3着。惜しく勝ち切れないレースが続きます。とはいえ。1989年よりは成績が向上、望みを持って秋のGⅠレースに臨みます。
舞台は、得意距離と言われている天皇賞秋2000m。くしくも、中山から代替コースで行われた東京皐月賞2000mと同じ舞台でした。人気は、オグリキャップでしたが、故障明けで調整不足とも言われていました。
動画:JRA公式チャンネル
7枠スタートでしたが、中団の内側の位置に付くことに成功します。直線に向いて、残り400mで先頭に立ち、スルスルと抜け出していきます。
残り100mを切ってから、メジロアルダンが猛追しますが、頭差で逃げ切ってGⅠ2勝目、そして1年半ぶりの勝利を上げます。
最終的に、GⅠ勝利は、東京2000mと全く同じ舞台に。これにより、翌年のヒーロー列伝のポスターには”東京の二千に咲いたムテキの舞い”と記載されたほどでした。
その後、2戦しますが、勝利を挙げることはできませんでした。年末の有馬記念が引退レースに。この時はオグリキャップの引退レースで、17万人もの大観衆が集っていましたが、ヤエノムテキも引退レースでした。
その有馬記念でアクシデント。本馬場入場時に、岡部騎手を振り切ってしまい、なんと放馬。競技場を1周したところで捕獲、馬体検査では異常なしということで、そのまま出走へ。7着となりました。
このように気性が荒い面もあったため、引退式も取りやめていたのですが、有馬記念の放馬で、自ら引退式を行ったと、ファンの間で話されました。
その後、種牡馬となるも、目だった産駒はなく、2度組まれたシンジケートも解散。食肉となる危機を案じたヤノエムテキファン150人が、ヤエノムテキ会を結成し、これを回避。種牡馬の後、日高スタリオンステーションで功労馬として、余生を過ごすことができました。
東京2000mに滅法強かったお馬さんとして、最後までファンに愛された名馬です。
リンク集
ウマ娘【競走馬元ネタ解説シリーズ】
箱根駅伝-もっとフリーダムに語ろう!!!-(姉妹サイト)
あ